2015年3月15日日曜日

詳細&再開 16 ミンコフスキーと空港の1 



mokuji へ




詳細&再開 16 ミンコフスキーと空港の1 








目を瞑る。

自分は今、抽象的な平面上に立っているのをイメージする。


ありゃ、碁盤が17本の線でできてることになってる。
大間違いしてるけど、このまま。

碁盤の19本の線、真ん中3本でできた、幅が線化したとして、




碁盤なら縦横19本が17本になっての線。
縦: 8本+1本+8本
横: 8本+1本+8本
合計16x16マス目の同時存在(2^4x2^4)

オセロ・リバーシなら8x8マスだから、
縦: 4本+1本+4本
横: 4本+1本+4本
合計8x8マス目の同時存在(2^3x2^3)



縦横中央の線を、x軸 y軸に見立てることもできる。
どちらのマス目も同じ大きさだとしたら、

リバーシ (Reversi)は碁盤の第1象限の大きさ。
リバーシ4つで碁盤の大きさになる。


象限 平面における四分儀(quadrant)


















リバーシ盤の4分の1、が4x4マスの白線枠内。
さらに4分の1が、2x2の赤線枠内。
さらに4分の1が、1x1の青線枠内、

リバーシのマス目1つの大きさ。


正方形の中央に立つということが、
頭の理解だと、正方形の対角線交点に立つということ。


目での理解だと、より真ん中って感覚かな。
ここが中央だと正確には指し示しできない感じ。
額縁を壁に架けるんだけど、
これで水平かなを何度も繰り返す感じ。

ギリシャ神殿のエンタシスや、
レオナルド・ダ・ヴィンチが、受胎告知 (Annunciazione)だったかな。

言われて初めて気が付く方も少なくないと思われるが、聖書に手を伸ばす聖母マリアの右手の二の腕が少し長いことにお気づきだろうか?
腕が少し長く描かれた理由としては、どうやら当時この作品は若干高い位置に展示されることを意図して描かれたもので、しかも作品の右下の方向から鑑賞されることが予定されていた作品だったようだ。
実際にダヴィンチ「受胎告知」を右下の方向から仰ぎ見ると、若干長く描かれた右腕が絶妙な遠近感をもたらして、正面から見た以上に奥行きをもって、見る人の目に映る効果があらわれるという。おそらく、広めにとられた人物間の間隔も、この遠近感・奥行き感の演出に一役買っているのだろう。
2007年に、フィレンツェのウフィツィ美術館から上野の東京国立博物館へダヴィンチ「受胎告知」の実物がやってきたときも、
http://www.art-library.com/davinci/annunciation.html

遠近法で、3次元空間のある1点から、平面を見るを想定している。

見る位置によって、そのとき注目している絵面の幅の量によって、
水平感覚が、異なるっての、わかるかな。

















遠近法では、額縁中心で中央、
上下の枠や左右の枠からもっとも遠いとこが、

奥行きが最もある。ように描かれている。(真正面だった場合。)


ヒトの目は額縁横幅ピッタシ長さだけを常に見ているわけじゃない。
つい、描かれている個物に注目が行き、
或いは、額縁横幅を越えた範囲までを同時として見てなして、

見た範囲の横幅線分中心に目が行く。

額縁を壁に架けるとき、額縁左右を持って、
真正面から見ている気分だけど、

身体は確かに、そうなんだけど、
見る範囲が、ちらついて、動いてしまう。

そうすると、例えば、緑線分に注目すると、
緑線分中心を回転の中心にして、水平を探ろうとする。

額縁を真正面から左右の手で持っていても、
注目した範囲の線分は、真正面にない。

腕を肩の高さで前へ真っ直ぐのばしても、
目の想定する水平線高さと違う。


ここで左目だけで、両腕の先である手の先端を
同時に見てみよう。

身体感覚では、両腕は、真っ直ぐ身体正面に伸ばした。
なのに、左目だけで右手を見ると遠くになった。右手が。

物理的空間意識だと、左目と右目から右手までの距離を割った
平均距離より、左目だけで見ているから、右手は遠くに見えるはず。

遠くに見えるものは小さく見えるはず。


だけど、右目を閉じた瞬間、左手より右手に注目が集中する。
何度か繰り返してみてくれ。試(こころ)みてくれ。


右目を閉じると、視野が左に動く。


右手は視野の縁(ふち)に近くなり、
左手は視野中央に近付く。


見えるか見えないかになる可能性の高い視野縁(ふち)の
右手の方に意識が行くから大きく見えるのか、
視野縁(ふち)に近くなって遠近法で大きく見えるのか。



それは心理学の方で勝手にやってもらって、
理由付けしてもいいけど、

この場合、実験枠組みという、視野狭窄状態からの結果を
論文にしたものとなる。

座標でしか思考しない理論物理学者が、視野狭窄状態の為、
座標空間と電磁現象の関わり、どこかで起きた事象を認知するまでの
情報遅延を思考枠組みの外に見逃したのと同じなる。


ま、視野狭窄状態での共通言語化作業というのも、
科学者個人が論文出世するには必要だから、
あまり批難するのは、やめておこう。

もちろん一流の心理学者なら、実験結果を論文にするのではなく、
己が作った実験枠組みという視野狭窄に迫ることを楽しむだろう。







ここからは相対性概念が、なぜ21世紀の物理学に
パラダイムシフトを起こすかの、空間認識そのもの手続きに
入っていこう。

見過ごされた前提条件を座標に組み入れる用意をしながら。






右目を閉じた瞬間から暫くして、そのまま右目を閉じてると、
左目眼球を、天井から見下ろす視線基準で時計回りに動かして、
両手を結ぶ線分中央と左目視野の中心を合わそうと眼球がチラチラ動く。

半ば意識的なんだけど、左右両手を左目視野中央に見える状態を
維持するには力がいる。

すぐに眼球の筋肉が疲れて、バネの復元運動のように
左眼球本来の視野正面に戻る。


これって、隻眼のヒトの方が疲れないってことじゃないの。

だったら、両眼を瞑った、瞑想の方が、より疲れなかったりして。



隻眼のヒトは、視野範囲中心と注目したい個物範囲中心を、
眼球が疲れないように、身体を斜めにして向ければいいだけ。

社会生活では、身体を斜めに向けて正面を見ていると
変だと思われるかもしれないけど、



■斜視とは
 物を見ようとする時に、片目は正面を向いていても、もう片目が違う方向を向いてしまっている状態が斜視です。
http://www.nichigan.or.jp/public/disease/hoka_kodomo.jsp

医学をやるわけではないんで、細かい場合分けはしないけど、
利き腕ってのがあるように、眼球の筋肉にもあるだろうし、
眼球の網膜の感受性、光を受けるときの痛さとか、
脳への伝達効率の違いから、左利き、手ならぬ、左利き眼球もあるかも。

でも、両目を使って正面を見る方が有利だから、

臓器としての眼球、左右の身体器官的快楽好みを優先させないで、
統合としての身体機能として、斜視の症状の幾つかは改善されるのかもしれない。

改善といったけど、正面への矯正が始まった。



「タイヤは真っ直ぐに取り付けられていない」
という事です。
ご存知でしたか?
http://www.carlifesupport.net/chassis-kiso_wheel-alignment.html
全てのタイヤが真っ直ぐ向いていると思いきや、
実は「ハの字もしくは逆ハの字」になっているのです。



俺は箸と鉛筆は右に矯正させられたけど、バットは左。
ピッチャーの顔面を正面中央に映し出す画面、その右側に見えるバッターボックスに立つ。
ボールを投げるのも、左腕。

野球の話ね。バスケットボールだと、左右というのはコートが線対称だから、
左右どちらかを重視するはないのかもしれないね。

野球だと、バッターの右にある1塁へ向かって、
以後、反時計回りに廻るから、線対称じゃない。






ゲーム理論だと、左に進む確率と右に進む確率、
バスケットボールのトラベリングを同じにした方が、有利。
予測の不可能性。というか、確率の期待値に関係してくるから、

バスケの選手は、両利きの方が有利かな。フットボールでもかな。



ただし選手の本来のポジション位置、左右とか、相手の左右利き度とか、
今現在位置からコート側線縁(ふち)までの間隔左右残量とか、

選手個人が無限の平面中央に立って、これから左右どちらかに進むのと違い、
自分の今いる位置までの進入角度とか速度。自分自身の来歴が作る軌跡方向性。

コートという枠組みと自己現在の来歴含む位置の相対性を考慮して、
左右への確率度合いを勘案する必要性。

そうそう、忘れてた。相手現在の来歴含む位置も入れて、

3つの相対性を考慮しなきゃ、

自分と相手が、無限性の座標空間にいるんじゃなくて、
バスケットコートという有限枠。


自分を中心に相手とバスケットコート枠がバラバラに動く系。
相手を中心に自分とバスケットコート枠がバラバラに動く系。
バスケットコートのセンターを座標中心に重ねて、自分と相手が動く、
天井固定カメラ視線、俯瞰がある。


バスケットはルールがあるし、自分や相手もヒトだから、
空間認識には癖がある。パターン化しやすいから、
完全なランダムじゃない。

これをコンピューターで演算すれば、左右どちらにトラベリング、
相手の身体位置を基準に出したり、は、単要素。
相手とコート、左の方が、広いとかで、2要素。

これは今現在の相手位置だけど、

相手も俺がどう動くかを予測してくるから左右の抜け幅は変化する。


現実的には、相手も自分も、コート枠白線も、
3次元空間のどこかに、いまある。

でも、次の瞬間の、左右抜け幅、相手とコート基準のは、
相手が俺の動きを予測して、左右の抜けることが俺にとって可能な幅を変化させる。

想像的だよね。

相手は俺の動きを想像的に予想して、次の瞬間の彼の位置をあそこだと、
象徴的に、決める。




ローレンツ変換のローレンツの誤解に1歩近付いた。


線路上を列車が走っている。列車の進行方向に、
走ってる列車から光線銃発射。

線路の終点に光子がぶつかった。

光源の速度に光子速度は影響されないから、

線路が自分に対して動いていないと見做すヒトには、
光子は発射地点から光速で終点駅にある的(まと)にぶつかっただけ。

これを1秒後としよう。光線銃発射から1秒後に終点駅の的にぶつかった。



走ってる列車に乗っているヒトにとって、
列車車輌を長さを30万キロメートルx2としよう。

ついでに列車速度も、光速と同じにする。

列車に乗ってるヒトは、線分列車中央に居て、
そこに光線銃発射口があるとする。


1秒後、列車車輌進行方向の扉Frontに当たる。

1秒後と言えば、線分列車中央が終点駅に到着している。


ローレンツ変換のローレンツは閃(ひらめ)いた。

動いている列車車輌が短くなれば、辻褄が合うと。



でも、すでに最初っから読んでいる貴殿なら、
ラカンの現実界と想像界と象徴界の話は、なんとなくわかってきた頃だと思う。

だんたんと気付いてくる。


確かに、現実的には、1秒後、列車に乗ってるヒトは、
終点駅に到着しているだろう。

でも、1秒後には、列車車輌扉Frontは、その30万キロメートル先にあるはずだ

いや、それより、時刻0秒の、光線銃で光子を発射したとき、
列車車輌扉Frontは、終点駅に着いているじゃないか。


なんか、おかしい。



そこで、もうひとつのイメージを導入しよう。




チャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」という映画は見たことあるかな。

Ben-Hur Your Eyes Are Full of Hate, Forty-One
https://www.youtube.com/watch?v=rfA371zhfHo


ガレー船時代の海戦戦術(ガレーせんじだいのかいせんせんじゅつ、英:naval tactics in the age of galleys)
彼らは敵の戦列に突進し、敵船の片方の船腹にあるオールを削ぎ落とした。
このやり方がうまくゆくと、帆船の帆綱を切ってマストを倒したのと同じような効果を生んだ。





松本零士の宇宙海賊キャプテンハーロックのイメージだと、
衝角戦術は、舳先(へさき)を敵船体横っ腹にぶち込む感じだけど、

ちょうど、座標に線路を描いて、横姿の列車を正面からの視線が突き抜く感じだけど、


敵ガレー船横っ腹に突っ込んだら、こっちの船体も壊れるかもしれないし、
船の速度が止まってしまう。

ガレー船横に突き出たオールの数々を折って行くんなら、こっちの船も壊れないし、
敵が乗り込んで来る前に、敵船から離れることができる。

1対1の海賊同士のいざこざなら、敵船横っ腹に大きな穴を開けるのもいいけど、
海戦は複数対複数だ。

敵船の動きを殺して、孤立させれば、その船は戦力外になる。





世界を把握すべき王、必ずしも現実には1人である必要はないけど、
用意された地図を認識するのは、1個人の頭の中である。

その地図を用意する情報将校も、必ずしも現実には1人である必要はないけど、
一度に認識できる絵図は1つだけだ。

一枚の絵図から、トリックアートの、

婦人と老婆
http://trickart.seesaa.net/article/36273463.html

【錯覚】どちら回りに見えますか?
https://www.youtube.com/watch?v=UpWX9g32INg


瞬間的には、どちらか一方のイメージしか認識できない。
だが、王がどちらかを次の瞬間するのを誘導する。

そのように、実際は、そこには婦人や老婆、
回転する踊り子がいるわけではなく、
液晶画面の画素を点滅させてるだけだ。

現実的はね。
王は、右か左の選択を、進むべき道の選択を迫られる。
王ってのは、バスケットプレイヤー。

だけど、フットボールでもだけど、フェイントで判断を誤らせるように誘導する。
合成したイメージを相手の王に、見せる。

どちらがより上の王か。俯瞰を手に入れたか。





これは空間的距離、黒板に近いか遠いか。または網膜の解像度で。




事実は、トリックアートの視野狭窄された枠組み内での
点画素群としては同じもの。

枠の外側での動きや、認識側の手続きミスを使って、相手を窮地に追い込む。




バスケットコートでの俺と相手。
俺は俺というぬいぐるみを着て、その覗き穴から相手を見る。
プレイ中の相手は、バスケットコート空間の内側。

コート内の正面にいる相手プレイやー以外の敵味方プレイヤー複数、
コート外の控え選手や、監督の特性まで
判断材料。



観客としての俺は、
2人のバスケットプレイヤーが、ボールを取り合おうとしているのが見える。
どちらが、先にボールを手に入れるのか。

一方がボールを床にバウンドさせ、もう一方がそれを奪おうとしている。

それぞれの仲間プレイヤーの位置を把握しながら。

観客の俺を含んだ体育館内空間の出来事である。



観客としての俺が、光時計内の光子の動きと、
線路内の列車の動きを、

同時に、鉛直方向と水平方向に見ているに過ぎない。




言葉に誘導されて、
列車内空間に光時計が存在していると思い込む
入れ子認識に騙されなければ、

列車内の局所にいるヒトと光時計内の局所にいる光子の
等価性が回復され、

ついでに、線路と一体化している、観客者としての俺も加えて、


この3要素が、同時に空間内に存在している。

この系自体が、基準系となっていて、

3つの局所点は、同時に存在し、

空間を優先して認識すれば、3角形は絶えず姿を変えているように見えるが、



テクニックによって、3角形を、固定させて扱うと、
単純トリックが完成する。


その前に、空間が数学的なもので、身体的なものが時間であるという、
わけわからんを、情報を得るという手続きを論理化する。

ただし、空間という媒質みたいなものを、
ミンコフスキーによって、到達不可能とされた空間を
情報世界に切り替える。




こんな硬い言い方をしてるけど、
体験すれば、すげーくだらんあたりまえ。


















視野狭窄の特殊相対性理論では、
基準系と慣性系という、どちらも抽象的な平面のゼロ距離擦(こす)り合いでしかなかった。

存在を扱った、ガリレオの相対性原理なら問題ないが、

光情報は局所に集まり、それを認識した主人公と敵注目正面ライバルや、
敵味方プレイヤー複数は同じ空間にいる。


座標はのっぺらぼうな無限性の広がりだけど、
バスケットコート情報空間、次の瞬間の各プレイヤー布置予測は、
各プレイヤーの癖や、それぞれがいま認識した、他者イメージを再び自分の中で、
解釈しなおした、情報空間だ。


もちろんこれは、より高度な経営(興業主、見世物、協力)とかの情報空間に繋がる話
になるので飛ばすが、これの、もっとも基本形が、単純トリックとして、


電磁現象と空間、空間内の局所で世界を把握するものの姿を現すことになる。




それでは話を戻して、ガレー船のオール、櫂(かい)複数を折る話に戻る。




東海道新幹線をイメージする。線路がある。
太平洋側にある下り列車用線路。
日本海側にある上り列車用線路。

どちらも地面の一部であり、地面に対して動いていない。

新幹線を、天蓋貨物列車にして、
長方形の6面体で、天井が青空が、天蓋貨物車輌だけど、
側面を取っ払って、床だけの貨物列車に改造。

その上に、兵士達が1メートル間隔で並ぶ。


ガレー船とガレー船が、互いのオールを折ろうとしての擦れ違いを、
上り列車と下り列車の擦れ違いで行う。

擦れ違いの幅は、ゼロ距離とする。

兵士達は向き合う。




Last Exile - 【Official OP】 - Extreme HD
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=_3lXas9dzjY#t=49

空飛ぶ戦艦甲板上に兵士達が並び、旧式銃で互いを撃ち合う。

人口削減目的の、儀礼的戦闘。



映画「アラモ」 アラモの砦。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=j8neBVJ6aDI#t=251
個人的には、砲撃の中、ゆっくりした整列行進を思い出すアニメのシーン。

かえるが逃げないで、茹で上がるせるのに、
徐々に温度を上げるのが技法なのかどうか知らないが、




さて、床だけの貨物列車の兵士達が、
ここでは上り列車の兵士達が、下り列車に同時に飛び移るとしよう。

兵士を1001人用意して、1メートル間隔だから1000メートル。

上り列車と下り列車は、互いに線路に対し時速300キロメートルでも、
秒速30万キロメートルでもいい。

相対速度は、倍。ま、ここはどうでもいい。




上り列車から兵士達が飛び移るのが人道的でないなら、
旧式銃でゼロ距離射撃をしたでもいい。

下り列車に弾痕が等間隔で残る。

飛び移った兵士達なり、弾痕は1メートル間隔のはずである。



ローレンツ変換のローレンツが、
相手側の列車は物理的に縮むとか、縮んで見えるというんは、
頭の中での辻褄合わせの発想であることが、これで確認された。

あっ、下り貨物車輌は、実験前に1000メートル長さピッタシを用意したんでは、
縮んでしまうかもだから、長めに用意してね。最初はほとんど無限の長さの連結列車で。


座標という無限性と、実験開始前に、なぜか1000メートルであると、
上り列車側を数学者のように定義で宣言するだけなら、物理学はいらない。

固有時とかなんとか、言ってるが、
それより、メートル原器の長さが、その両端を同時に認識するとは、
どういうことなのか。


見えるということは、設計図の三面図の平行影絵とは違うんだぜ。

なにせ、カメラレンズには口径がある。
簡単にする為にピンホールカメラの口径は点。

見えることと、長さの存在は同じではない。



そもそも空間は本当にあるんだろうか。
そこまでしたら、哲学とか仏教になるんで、


空間とはなんであるかを、実験物理学的に定義しなければ、
存在としてのメートル原器から、

電磁現象での空間的時間的存在のメートル原器を情報として
編み出していこう。



いままでは、ガリレオの相対性原理なら、
長さの存在を、そのまま座標に記述することができた。

電磁現象では、


夜の学校に忍び込み、教室に入り、懐中電灯で、
黒板を照らし出して初めて、黒板に描かれたxy座標平面という、
黒板表面の絵面が正面に見えてくる。



ミンコフスキーの光円錐。
その現在時の点で、懐中電灯と点灯。
過去円錐のある下向けの感覚で。

過去円錐底面に光子群は届くことはないけど、イメージで。
そこに向けて光を放つ。

教室中央から黒板は時間的彼方。
昼間なら、黒板表面で反射した光子群が網膜を刺激してイメージ。
でも、そのイメージは過去円錐底面。

情報摂取時刻と、事象発生時刻との違い。


点灯し、放たれた光子群は、未来円錐底面に、
1秒後に到着とする。円錐のスカート部に。
円錐底面中心への推薦は、斜線に対して短いのであとで補正。

これは、正方形に対して、外接円と内接円があるのと同じ。


懐中電灯はアクティブソナー。往復しないと情報は得られない。
ま、それは本質的なことではない。



教室ではなく、プラネタリウムドーム内壁面へ向けて、
ドーム底面中央から懐中電灯点光源で照らすと、
補正そのものがいらなくなる。



教室は立方体みたいなもの。
プラネタリウムは球体みたいなもの。


これをテクニックで同一視するとなにが起きるか?









瞑想なら、自分の足元を原点Oとし、
でも、靴のサイズがあるから、
リバーシのマス目に、
リバーシの石は、マス目に内接する円より少し小さい半径でできてる。

ピッタシじゃない。


リバーシの石の中心と、正方形マス目の対角線交点にはズレが生じる。


具体的な世界のものには、大きさがある。ピッタシでもない。

それと、座標という抽象的なピッタシの世界との整合性も手続き化しないと、
電磁現象は、座標に記述できない。


難しい、遠回りな、言い回しをしてるけど、

わかれば、くっだらねーの。




さあ、単純トリックの根幹に触れる用意ができた。







では、次章に。


mokuji へ












以下、記述者用の捨て文



3:zionadchat:2015/03/15(日)10:30:56 ID:IbT
私は、この世の最高速度1の光子を投げることができる。
私の位置を原点Oとすると、1秒後に単位円円周に光子は辿り着く。

台車に載せた光源から、台車の進行方向に光を放っても、光速度は変わらない。
しかし、列車水平方向成分と、列車に載せた光時計鉛直方向成分は加算できるかのように
光子軌跡が赤斜線で描かれている。

光時計は単位長さ1とする。

列車や光時計を枠と見ないで、すべて原子の粒の集まりと見れば、
入れ子のトリックが消える。
原点Oにいる私に、この世のすべての原子は、
最大C速度で近付くか、遠ざかるかの相対速度しか持てない。

まずは、こんなところから。


4:zionadchat:2015/03/15(日)10:58:06 ID:IbT
線路上の列車が走ってるのを見るヒトは、線路がいつまでも同じ位置に見えるとする。
線路というより枕木かな。
このヒトは、1秒間で原点Oから緑色単位円円周まで旅する光子の軌跡が見える。
同じ1秒間に、赤線が光子軌跡として見えると、
特殊相対性理論の解説本は言うけど、
これじゃ、光子軌跡が別々の長さを持つことになってしまう。
系によって、光子軌跡長さが変わらないのが、
アインシュタインの求めるところじゃなかったのかい。

ローレンツ変換は数学的に正しい。
ただし時空連続体仮説は、前提条件の見逃しがあった。

観測だけではなく、観察という概念にも局所性を導入すると、
電磁現象と古典力学が素直に繋がる。

それによって、量子力学の見方も変わる。
twitter で、zionadchat 検索よろしく。

http://uni.open2ch.net/test/read.cgi/sci/1418294120/







放棄 詳細&再開16 ミンコフスキーと空港
http://zionadchat.blog.fc2.com/blog-entry-37.html


















抽象的な、無限の中心に立っているわけじゃない。
座標の中央に立てば、正面を公平に見ることができるなんて、幻想となる。











野球のピッチャーが苦手とするかもしれない左バッター、
これは、投手に右投げが多いだろうを前提としてたり、
一塁へバッターが走るは、反時計廻りがルールだからだろうね。

対称性や非対称性が、前提に出てきた。

テニスも非対称性だね。サーブをするときのルール。
立ち位置範囲指定と、ボールを入れる範囲指定が左右のどっちか。

ラケットも1つしか持てないから、非対称性。
両腕を使っても、身体をねじって打つとき、片腕が外側になるから非対称。




ともかく、正面というのは、左右の眼球が互いに緊張した状態で演出
されているようだ。




これが特殊相対性理論のトリックに関わってくるのが、おもしろいとこ。

正面だけで思考していると、京都駅視点でしか試行錯誤できないけど、
博多駅視点や、東京駅視点を導入すると、

正面を見ている僕は、京都駅にいる僕とは違う、分裂した存在だということは、
詳細14や詳細15でやった。



いまは眼球の緊張度を意識してもらったことによって、
視野範囲の正面からのズレや、その視野範囲中心を
注目したい範囲中心に重ねようとする動きが出てきた。


博多駅と東京駅を結ぶ固定的な、線分横姿だけでなく、

線路上を動く、列車横姿である、線分中心に視野中心を合わせるとは、
どういうことだろう。






















腕を肩の高さではなく、両目を結ぶ水平線高さにしても同じだ。
前よりは、左目と両手先端が作り出す三角形面積が小さくなったので、







これが見かけ。

線分を等間隔に分割しても、等間隔には見えない。

線路に立って、線路の先を見ると、遠近法で、
平行線であるレールが作り出す幅が、
遠くはだんだん閉じてくる。

ところが、丘の上から直線区間の線路横姿を下手なスケッチをすると、
言語意識優先で、線路を真っ直ぐに描いてしまう。







LAST EXILE 銃兵
https://www.youtube.com/watch?v=28roJHeVaZU&t=243









眼球は、点ではないし、ピンホールカメラの孔(あな)だって、
実物には大きさがある。

レオナルド・ダ・ヴィンチが左右の視野差から3Dでの見え方をも
モナリザで試していたらしい。
http://sakusei2015.blogspot.jp/2015/03/twitter-2015-03d.html




quadrant (instrument)


以下の文書は次の部分訳です。使用している絵も英語版の Wikipedia のものです。
http://mail2.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/navigation/quadrant.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Quadrant_%28instrument%29

http://dictionary.reference.com/browse/quadrant